安祥城の攻防戦
永享一二年(1440年)、畠山氏の一族と言われる和田親平が築城したとされる。ただし、現在の安祥城の西隣の安城古城が本拠地で、築城当初は館であつたようです。
その後、文明三年(1471年)、三河国岩津城主松平信光が、謀略を用いて、無血入城したといわれています。以降、安城松平四代(親忠・長忠・信忠・清康)の居城となります。清康が大永四年(1524年)、本拠地を岡崎城に移すと、安祥城には松平の将が城代として入ったようです。松平清康は三河全土を統一する勢いでしたが、敵対していたた織田方の尾張国守山に出陣中に、家臣に殺害されてしまいます。(守山崩れ)松平一族も同族相争うようになり、一族は急速に弱体化します。天文九年(1540年)この機に尾張国古渡城主織田信秀(信長の父)の攻撃が始まり、安祥城が落城。織田信広(信長の兄)が入城します。岡崎には、清康の子、松平宏忠(家康の父)が今川氏にたよつて、岡崎城主に復帰。これ以降も度々の攻城戦が繰り返され、敵味方多くの戦死者をだした。天文一八年(1549年)に、今川方の攻撃で落城し、織田信広は人質として捕えられ、織田方に人質として捕られていた竹千代(のちの徳川家康)と交換。竹千代は今度は、今川方に人質になります。安祥城には、今川方の将が入城することになります。この間、尾張の織田家は信長の時代になっていました。歴史が、まるでドラマのように動いた瞬間です。そして、永禄三年(1560年)、運命の桶狭間の合戦を迎えるわけです。
大乗寺本堂には、安城松平氏四代の位牌が祀られています。三之丸跡に残る風呂井の井戸。二之丸跡地に、現在は東尾神社が建てられられています。三之丸跡地に歴史博物館、建っています。
左端の写真は、亀の上に乗った本多忠高の墓碑で、この場所まで攻め入りここでで討ち死にしたそうです。
周囲は森と深田に囲まれていて、その内側に土塁や堀があり、天主閣を持たない平山城です。別名「森城」と呼ばれていたようです。本丸跡に建造遺物はなにも残っていません
大乗寺本堂には、安城松平氏四代の位牌が祀られています。三之丸跡に残る風呂井の井戸。二之丸跡地に、現在は東尾神社が建てられられています。三之丸跡地に歴史博物館、建っています。
右端の写真は、亀の上に乗った本多忠高の墓碑で、 この場所まで攻め入りここでで討ち死にしたそうです。
この安祥城の数次に渡る攻防戦で、三河松平一党は多くの武将を失うが、他家にない戦国集団を結束させ、後の天下取り徳川家の基礎が出来上がったのではなかろうか!!なかでも、本多忠豊、本多忠高親子の勇猛果敢ぶりは、戦国美談として永く語り伝えられてきました。寛政六年、寛政九年にそれぞれ、討ち死にした場所に岡崎城主により,墓碑が其々建てられました。市指定文化財になっています。徳川家最古参の三河安祥之七御譜代の発祥の地でもあります。(酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村)。桶狭間の合戦が始まりました。松平方の棟梁 松平元康(のちの徳川家康)は、総大将今川義元が打ち取られた時、最前線の大高城にいました。水野信元の知らせもあり、ただちに岡崎の松平家の菩提寺 大樹寺に逃げ帰りました。岡崎城には、今川方の武将が留守居していたので、しばらく、大樹寺に逗留していたようです。今川方が岡崎城を空城にして駿府に撤退後、空城に入城。松平氏は念願の独立をはたします。その後、織田家との間に、清洲同盟が締結されたことで、岡崎城の戦線基地としての価値がが薄れ、永禄五年(1562年)ころ、廃城とされます。
城内案内板 安城市教育委員会発行パンフッレト参照