清洲越しは、集団「高台移転」でした。

先日、中日新聞朝刊県内版に、戦国時代の液状化現象と題して、興味深い記事が掲載されていました。 江戸時代初期、徳川家康による、尾張・清洲の城下町を丸ごと移した「清洲越し」の背景に、相次ぐ巨大地震があったと。清洲城跡に、液状化現象の痕跡が見つかっています。「清洲越し」は近世の「集団高台移転」であった可能性が高いとの研究者(産業技術総合研究所 寒川旭客員研究員)の見解を紹介しています

 

 清洲越しは「高台移転」。徳川家康、大地震を見越して高台・名古屋へ集団高台移転を断行!!

戦国末期、天正地震(1586年)では、長島城、蟹江城、長浜城が大津波と液状化現象で大きな被害を受け、北陸の日本海側の若狭湾にも大津波が打ち寄せたとする文献も残っています。さらに、飛騨地方を支配していた謎の戦国大名「内ヶ嶋氏」 の帰雲城が城下町を含め大規模な土砂崩落で一瞬にして消滅しました。織田信雄は居城を長島城から内陸の清洲城に拠点を移すが、「内陸に移って津波の不安こそなくなったが、今度は地盤の緩さが問題となった。」
続いて、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島の各地で大地震が頻発、京都の伏見城の天守閣が倒壊するなど全国各地に多大な被害をもたらします
五条川沿いの清洲城の石垣の下から見つかった液状化の痕跡。砂跡の下には十六世紀前半の陶器のかけらがあり、上には、清洲越しで廃棄された城の屋根瓦が認められた。したがって、これらの位置関係から、天正地震の液状化現象の痕跡とされています。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、西方の豊臣方に備え、交通の要所である名古屋の地に天下普請の堅城を築いたと言うのが通説だが、「強固な台地の上に城を移し、次に起こる大地震を見越した高台移転でもあった」とみる見解もあるようです。徳川家康は、清洲から8キロ南東の熱田台地の北端に、1610年名古屋城を築き、1612年から武家屋敷や町屋、神社など三千戸を丸ごと移します。 清洲越しの百年後、宝永四年(1707)(南海トラフを震源としたM8.7)の宝永地震が東海、近畿、南海を襲います。この巨大地震に対し、「高台に移転した効果とみられる出来事があった」と指摘されています。静岡から九州沖にかけて沿岸部に大きな爪痕を残します。名古屋城の北部の湿地帯を埋め立てた地に建つ家屋、神社仏閣の多くが液状化現象により倒壊を含む大きな被害が出ましたが、城の南部、東部の同じ台地に建つ武家屋敷、町家の多くは大きな被害を受けたという記録はほとんどありません。一方、上方の中心地大阪は「川沿いの低地に城下町が広がっていたため、道頓堀を津波がさかのぼり、大型の千石船が何隻も市内の中心部に流れ込み民家や橋を破壊していった。液状化による建物の崩壊も多く発生し、多数の犠牲者が出た」ようです。家康の先見の明により、名古屋と大阪は明暗が分かれたわけです。

東海地方における近世より発生した大地震を列挙すると

 ★ 明応 7年(1498) 東海道沖(M8.3推定)
 ★ 天正13年(1586) 被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ超巨大地震であったため、 震源域もマグニチュードもはっきりしてい   ない。複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている
 ★ 慶長 9年(1605)  南海道ー房総沖(M7.9推定)
 ★ 宝永 4年(1707)  南海道・東海道沖(M8.6推定)
 ★ 安政 元年(1854)  東海道沖(M8.4推定)
 ★ 明治24年(1891)  濃尾地震(M8.0推定) 典型的な内陸地殻内地震(いわゆる直下型地震)震源地 岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)、
 ★ 昭和19年(1944)  東南海地震(M7.9推定)
 ★ 昭和21年(1946)  南海道地震(M8.0推定)

東海地方には、過去、プレート境界型大地震に限らず、内陸地殻変動(直下型地震)大地震にも度々、見舞われていたようです。
安政の大地震の記録は各地に多く残されています。三陸海岸地域にある津波防災伝承の一つである「命てんでんこ」に代表されるような先人の教訓・メッセージも多く残されています。

紀伊長島町史 「養海院 大地震津波記」
「則チ宝永四丁亥ノ津波ヨリ、今嘉永七申寅ニ至リテ一百四十八年今ヨリ後、此ノ如キノ変災有ラル必ズ覚悟有ル可クナリ」
宝永大地震から148年目に安政大地震が今発生した。今から148年後(2002年)に必ず大地震が起きる事、覚悟し後世に語り伝えよ!!
志摩町史 「大地震 大津波流倒之記」
而後若し大地震等アラバ火を消し置、財宝を外にし、身命を内にして高き所へ退き、危機を逃れしめん事を伏候所、・・・・・依而如欺之事実を記して来世の一助ニ備んとす、恐らくは後鑑笑うべからず。
南勢町誌 神津佐 徳田家 「為地震津波心得謹世残」 には、此の地震・津波の状況やそれへの心得を音頭に作って「御村繁昌子孫へ傳えへん」としたもので、「欲のために逃げずに命を捨てるな、家・藏の屋敷の高さを上げ、田畑は早くとりかたづけて麦をまけ、浜の田は財産になぬ、堤・井関は丈夫にし、タガネをいれぬと潮がくるぞ」と教えています。
安政の大地震は、6月14日大地震に始まり、11月4日の大津波を伴う大地震を中心に、日に10回以上の強い余震に見舞われ、人々は長期間、野宿生活を強いられたようです。田原では、「殿様も野宿被遊候」と、記録に残っています。被害は、当然の事ながら、勢州沿岸、渥美半島沿岸、三河湾沿岸、知多半島南部沿岸を中心に広がりを見せていましたが、知多郡松原村庄屋小島茂兵衛は、「松原村諸用書覚」で、「当村ハ津波・地震とも御蔭ヲ以て逃れ申候、浜にて見る人之咄しニ波の高サ弐丈もあらん由、向ヒ地之地山波ニ而かくれ候由ニ申候」
対岸の四日市、鈴鹿の山並みが見えない程の大津波が襲って、さしたる被害がなかったとは俄かに信じ難いが、現在の松原村(知多市新舞子)周辺は、大規模な埋め立てにより石油コンビナート、火力発電所が立ち並び、高さ弐丈(3.6m以上)の津波が来たら・・・想像するだけでぞっとします。

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