小牧長久手の戦いの前哨戦 岩崎城の戦い

所在地: 日進市岩崎町市場67番地

徳川家康・織田信雄(のぶかつ)連合軍と羽柴(豊臣)秀吉の直接対決 小牧長久手の戦い の勝敗を左右した重要な戦略的拠点として、岩崎城が位置づけらてきました。築城年代は不明ですが、織田信秀(織田信長の父)の築城によるとした説が最も有力のようです。その後、三河国、岡崎の城主松平清康(徳川家康の祖父)が入城し、三河と尾張の最前線の城ということになつたわけです。松平軍のいわゆる「守山崩れ」の結果、松平勢は敗退し、これをきっかけに、地元の豪族丹羽氏清(うじきよ)が、天文六年(一五三七年)、岩崎城を占拠したという説が有力のようです。以後、丹羽氏四代の居城となりました。

天正十二年(一五八四年) 小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は徳川方に加勢し、後世、語り継がれる 「岩崎城の戦」 が始まりました!!膠着状態の戦線が、いわゆる「三河中入り作戦」の発動で動き始め、長久手方面より南下し、岡崎城を目指す秀吉軍(約七〇〇〇名)の進軍を阻止するため、城兵僅か三〇〇名で最後まで奮戦し、城代(城主丹羽氏次の弟 氏重)以下全員討ち死にするという壮絶な戦となつたようです。

長久手古戦場 池田恒興(勝入)塚

丹羽氏重は、 若干 十六歳の若さで、三度にわたり、羽柴勢の先方池田恒興隊に突入し、壮烈な討ち死にをした由。 その後も、城主丹羽氏次は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦以後、豊田市に一万石の大名として移付され、岩崎城は、廃城となりました。
岩崎城落城四〇〇年を迎えた昭和五九年、大祭が営まれ、翌年から、城址の保存を目的とした本格的が調査が開始され、本丸付近の「オテンシ」と呼ばれるあたりに昭和六二年に模擬天主、歴史記念館が竣工しました。

この攻め手の池田恒興勢も、4~5キロ先の長久手の戦いで、家康本体と決戦となり、森 長可といった羽柴方の有力な武将共々、討ち死にしました。
池田恒興(勝入)塚がありました、恒興の長男 池田元助も討ち死にしています。昨日、首実検をした者のが、今日は、自分が首を切られ首実検される立場。戦国の世の常とは言え厳しものがある!!    諸行無常・・南無。

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