寺本城の攻防

所在地:愛知県 知多市八幡字堀之内  

 知多市寺本、堀之内地内に天王山と呼ばれる小高い丘があり、堀之内の氏神である津島神社が祀られています。かってこの天王山には、室町時代から戦国時代にかけて、花井氏の本拠であった寺本城がそびえていました。寺本城は「尾張志」によると「堀之内にありて今天王山という東西五十間南北二十間花井播磨守其子勘八郎二代居しといひ伝えたり」と紹介されています。寺本城は別名「堀之内城」「青鱗城」とも呼ばれていました。この青鱗城の名の由来は、天守閣の鬼瓦が青銅の鱗形をしており、夕日に映えて伊勢湾を通る舟から良く見えるところからついた名であるといわれています。

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寺本城主花井氏は、十五世紀~一六世紀に寺本を中心に勢力を張った豪族であり、この時、今川方に人質を出し今川勢に加担し、織田方の緒川の水野信元への通路の遮断をする役目を担っていました。そのため天文二十三年(1554)一月二十五日、今川方との村木砦の合戦に勝利した織田勢により攻められ、寺本城下は戦火にあい甚大な被害を受けました。民家、神社、仏閣の大半が焼失したようです。花井勘八郎は、この後、織田の軍門に下り、大野宮山城の佐治上野介為貞の娘を室として娶り、大野水軍とともに、信長の支配下のもとで、水軍を率いて、各地に転戦したと思われます。後に、花井氏一族は、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に東軍についたが、西軍の九鬼水軍(九鬼嘉隆)に攻められ、落城。城下の古刹 法海寺はじめ、神社仏閣ことごとく焼失したそうです。花井一族は、信濃へ一度落ちのびる事になります。後に、知多に戻って来ているようです。

参考文献:知多市誌本文編

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