在原業平ゆかりの古刹 宝珠寺

      六歌仙の一人 在原業平

ちはやぶる神代もきかず龍田川
からくれないに

水くくるとは

『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌 

平安時代に在原業平が創建したと伝えられています。平安時代末に融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人が、その父である藤原道武の帰依によって正法山一心院を建立し、藤原家累代の墓所(正法塚/市指定)としたといい、藤原道武は業平塚(市指定)の脇に開基を在原業平とする寺院(宝珠寺)を復興し、業平等の菩提塔を建立したといわれています。室町時代の天文2年(1533年)に長源寺の開祖である大中一介の法嗣(ほっす)二世静室興安禅師が宝珠寺を曹洞宗に改宗し、江戸時代になると元禄年間(1688年~1704年)以降、富田城跡で良忍上人の誕生地とされる現在の場所に、寺本城主播磨守花井勘右衛門信忠の末裔の花井勘右衛門が移建したと伝えられています。宝珠寺観音堂は棟札によって正徳5年(1715年)に建てられたことがわかり、建物の様式的にも江戸時代中期のものと思われます。大工は平島村の杉江忠右衛門と記されています。観音堂の一部は改修されていますが、内も外も当初の姿をよくとどめており、伝統的な技法を守って建てられ、三間堂としても形が整っており、建築の質も高く、江戸時代中期の建築として高く評価されています。

業平塚は,平安時代に六歌仙の一人に数えられ,『伊勢物語』の主人公となった在原業平を祀ったものとされる五輪の供養塔である。伝説によると,業平が東国に下るとき,この地にたどり着いた。このことを聞いた女官が,京から後を追ってきたので,業平はとっさに椎(しい)の木に登り身を隠した。しかし,根元にあった井戸の水鏡に映った業平の顔を見て,女官は我を忘れて井戸に飛び込み死んでしまった。これを憐れんだ業平はこの地にとどまる決心をした。業平の死後,彼らの霊を弔うために五輪の供養塔を建て,「業平さま」と呼んで大切にしたという。 今でも、お花と水が絶える事が無いそうです。また,『張州雑志』(ちょうしゅうざっし)には,「昔,業平が伊勢からこの地に移り,しばらくとどまった。この時,寺を建立し一心寺とした。この寺は廃寺となったが,本尊及び石塔,位牌は宝珠寺に移した」とある。宝珠寺には,業平の守り本尊で行基の作と伝えられる寄木造りの観音菩薩像と,業平の位牌がまつられている。さらに、在原業平にまつわる伝承は、室町時代から戦国時代にかけ、守護にも対抗出来うる強力な国人(在地の有力な武士団)として成長していた荒尾氏の出自に関しても係わってきます。荒尾氏は在原業平の末裔で在ると。業平は、伊勢から船で、知多郡大里村へ渡り、そこから富田村へたどり着き、しばらく富田村に逗留することになった。そして、一男をもうけ、在原小次郎となずけた。その子が荒尾次郎と呼ばれ、それ以降、此の地方を荒尾と呼ぶようになったと。尾張志(上)にも、業平塚について次のような記述があります。
「富田村にあり、里人の傳へに在原業平朝臣この地に住居ありといへり・・・・・・その裔孫荒尾氏久しく當郡にありし故、其の先祖の塚を營みしなるへし」
さらに、尾張国知多郡誌に
「富木島村外面ニ在リ一大青塚(三十五坪)ニシテ、五輪ノ古塔一基(モト十数基アリ)及老樹アリ。相傳フ在原業平本村ニ住ス。子孫荒尾氏業平ノ為メニ墓ヲ築クト。按スルニ里老云フ業平本村ニ死セリト。或ハ云フ、荒尾氏本郡ニ住ス其姓在原ナリ、蓋シ其子孫祖考ノ墓ヲ築キシヲ後人誤テ業平塚トセシナラント、或ハ云フ荒尾氏列祖ノ塚ナリト」

 参考文献 東海市史 尾張志(上) 尾張国知多郡誌 東海市文化財表示版等

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