大脇城址に行って来ました。

(『大脇城遺跡』 平成11年  愛知県埋蔵文化財センター より)

所在地:豊明市栄町字梶田119番 

 愛知県豊明市栄町字大脇地内に、以前より、戦国末期の武将「梶川五左衛門」の屋敷跡(大脇城)があった事はよく知られていました。『大脇城跡  大脇村にありその跡今田圃となる水野家の家士梶川五左衛門の居城なり』 (尾張志)

 大脇城址は、調査後、完全に埋め戻され、中央に伊勢湾岸道路の豊明インターチェンジが建設され、この石垣の正面に、大脇城址の石碑がたっています。 建設省(現国土交通省)が計画した伊勢湾岸道路・第二東海自動車道を計画した際、この計画路線上には大脇城遺跡が所在したため、急遽、本格的な発掘調査が、愛知県埋蔵文化センターにより、二次にわたってなされ、その規模が判明しました。 第一次調査の出土品として、大脇城の主郭を区画する堀の底から、護摩札が出土しています。武運長久を祈願して野間大坊の塔頭の一つ常楽坊より拝受したとみられる護摩札には、「天正四年」(1576年)と読める紀年銘が書かれていて、貴重な資料として注目をされています。これ以外にも、当時の人々の日常生活が伺われる多量な土器、陶器、木製品、石製品、銭貨、刀、鎌、などの金属製品、瓦類などが出土しました。この前年、天正三年(1575)十二月、水野一族の総領水野信元が、佐久間信盛の諌言により、信長の怒りをかい殺害されています。女城主で有名な「恵那の岩村城攻め 」に、なんと、武田方に内通していたと!!
梶川五左衛門は、天正八年(1580)、佐久間信盛が信長により、追放されるまで、佐久間信盛の与力として仕えていたようです。この護摩札は、五左衛門本人か、この地に住まいしていた梶川一族が、野間の「大御堂寺」に武運長久を願った貴重な資料と考えられます。
『寛文村々覚書』に「古城跡 先年梶川五左衛門居城之由 今ハ畑成」と書かれていることから、17世紀後半には、城の面影は既になく、田畑になっていたようです。現在も、標高3.5mのこのあたりは一面の田園地帯となっています。

周辺主要遺跡

戦国時代の真っ只中を、 梶川五左衛門 は典型的な戦国武将として戦いぬきます。

 戦国期、数多くの砦、城館が境川流域に築かれ、境川右岸の尾張側には、緒川城、横根城、大脇城、大高城、沓掛城。
境川左岸には、刈谷城等。五左衛門は、緒川城、刈谷城を居城としていた戦国大名水野信元に属していました。一時、大脇城より、横根村の、横根城へ移っていたようです。
横根城
(尾陽雑記)
「横根村にあり・・・・・・・梶川五左衛門當城を築きしが造営半にして成岩の城に移りし故廃城となる。」
(寛文村々覚書)
「古城跡、南北五十四間、東西参拾八間 先年梶川五左衛門取立、半造作之時分、同郡成岩村へ引越之由、今ハ畑ニ成。」
水野信元が織田家と同盟を結び、本格的に知多半島制圧に乗出し、半田の成岩城攻略に成功すると、梶川五左衛門が、城代として成岩城に入城します。天文十二年(1543)永禄三年(1560)桶狭間の合戦に至るまで、水野信元は、木田の荒尾、宮津柳審城の新海氏、坂部城の久松氏、成岩城の榎本氏、長尾城の戸田氏、冨貴城の岩田氏、河和城の戸田氏、大野城の佐治氏との合戦、謀略に明け暮れ、主だった家臣を殆ど投入していたようです。桶狭間古戦場伝説地は、大脇城の北西3Kmにあります。桶狭間合戦時、水野信元の動きが全く見えてこない。領地内を進軍されても積極的に攻撃出来なかったのは、自らの領地を守るのがせいいっぱいで、攻撃に打ってでる余力はなかったのではと考えられます。大脇城は、今川方に属し、横根城、追分城(大府市東新町)を守る水野勢は、この時、動きがなかったと言われています。

曹源寺 と    国指定史跡  戦人塚

曹源寺  所在地:豊明市栄町内山45  

戦人塚  所在地:豊明市前後町仙人塚   

 曹源寺 は曹洞宗の寺院で、山号は清涼山。永正二年(1505)に宝飯郡八幡村(現、豊川市)の西明寺三世実田以耘和尚によって開創されました。(当初は、天台宗)。
直後、曹洞集に改宗されます。桶狭間合戦時の住職 二世快翁龍喜和尚は、水野家菩提寺乾坤院(曹洞宗)との関係が深く、水野家重臣中山氏一族であると言われています。この地域が、政治的、宗教的両面で水野氏への依存度が高かった事が推察されます。承応三年(1654)三月の火災に因り、諸堂全部灰燼に帰し、わずかに山門の扉二枚のみ残ったと伝えられています。現在の位置より、当初は、大脇城よりの「元屋敷」という所に、梶川一族の庇護のもと開創されたのではと考えられます。その地は、たびたび、境川、正戸川の氾濫に悩まされており、高台にある現在地の山林を開拓し整地して伽藍として整備されました。延宝元年(1673) 
曹源寺は、知多四国霊場第一番札所であり、境内に弘法大師像を安置する大師堂があり、ひがら参拝する老若男女で賑わいをみせております 。
永禄三年(1560)桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世快翁龍喜和尚が塔頭寺院の明窓和尚に命じ埋葬供養した塚で、戦人塚言われ、この石碑は元文四年(1739)百八十回忌の供養祭に建碑されたものと言われています。戦人塚は 国指定史跡 となっています。曹源寺は、桶狭間の合戦の戦場の真っただ中に位置していたため、戦場一帯に放置されていた多数の戦死者を埋葬供養し、今川義元をはじめ、多くの武将の霊牌を位牌堂に祀り、戦人塚と共に歴代の住職が回向供養してこられたそうです。

その後の梶川五左衛門

 この時期、梶川一族には、長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛がおり、長兄、次男は織田信長に直接仕え、桶狭間合戦の折、中島砦の守備についていました。高秀、その子高盛はその後、数々の功名をあげていきます。 三男五左衛門秀盛が、大脇村に残り大脇梶川家を継ぐ事になったようです。五左衛門秀盛の名が登場するのは桶狭間の合戦以後のようです。永禄三年(1560)、十八町畷(じゅうはっちょうなわて)(現、刈谷市)で展開された織田信長と松平元康(家康)の戦に、水野信元軍の二番備えとして参戦しています。天正三年(1575)十二月、信元の死後、刈谷城主になった佐久間信盛の与力として仕えます。天正八年(1580)九月、佐久間信盛が、信長によって追放された後は、信長に召抱えられます。天正十年(1582)六月、本能寺の変での信長の死後、織田信雄に仕える事になります。小田原攻めの際には、信雄軍の旗奉行を努めます。信雄分限帳に1480貫文とあるが、領地は具体的には不明です。おそらく、大脇村から横根村の現在の大府市南部周辺を領有していたと思はれます。 天正十一年(1583)には、梶川五左衛門は大府の延命寺に、田畑、山林を寄進しております。 その寄進状が現在も延命寺に残っています。天正十一年(1583)三月 小牧・長久手の戦いに織田信雄方として参戦。おそらく横根城改築中に和解となり、横根城は、廃城となり、大脇城に居住していたものと考えられます。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に織田信雄の旗奉行として参陣。征伐後、領地替えに反対した信雄は、秀吉により領地没収となり、主家を失った五左衛門の動向も不明となります。文禄、慶長の役(1592~1598)において、朝鮮に出兵し、湯川城攻防戦(現、ソウル郊外)で戦死。「寛永諸家系図伝」に、池田輝政に従い出陣とあるが、この時期、輝政は三河の吉田城を守っており朝鮮出兵はしていないはず。(天正十八年~慶長六年)吉田城と城下(現在の豊橋市)の整備に11年間費やしていたはずです。おそらく、信雄にかわって尾張を支配した豊臣秀次、福島正則に仕え、正則に従い朝鮮に出陣したと考えるのが普通だが、あるいは尾張を離れて東三河を領した池田輝政または其の一族に仕えて、輝政の命により出陣したとも考えられます。六十歳で、異国の地で討死とは、梶川五左衛門 思いもよらなかったことでしょう!!
時代に翻弄された典型的な戦国末期の武将の一生を垣間見ることができました。

参考文献 豊明市史総集編 尾張志 寛文村々覚書(下) 尾陽雑記 織田信長家臣人名辞典 
『大脇城遺跡』 報告書 平成8年版 平成11年版  愛知県埋蔵文化財センター 

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