伝統芸能を伝承する事の難しさを考える!!

祭りの花形・梶取  「尾張横須賀祭り」に関わる若衆たちにとっては、一生一代の晴れ舞台。梶取の中の梶取り。誰しもがやってみたいのが「シケの華」です。山車を正面見て左側の梶棒(シケの棒)の先端に位置する梶取を「シケの華」と言います。狭い辻で回転するには前梶を4人で担ぎ上げ、 山車は時計回り(右回り)で回転しますので、「シケの華」が最初に道角、電柱に近ずき、非常に重要な役割と責任がのしかかります。

所在地:愛知県東海市横須賀町四ノ割23−1 

今年も尾張横須賀愛宕神社の秋祭りに行って来ました。毎年、9月の第4日曜日(本楽)、前日土曜日(試楽)の2日間おこなわれます。愛宕神社の正面に、北町組の「山車蔵」と「若衆宿」があります。「若衆宿」前に、60年以上、毎年、お囃子(楽人)衆として、この祭りに参加している「古老」にお会いしました。いろいろ、世間話、昔話を花咲かせていました。「山車」、「お祭り」を維持する事が、町にとっていかに大変な事かを、熱く語りはじめました。私も30年前は、この横須賀町の住人でした。「古老」が熱く語った話を纏めてみようと思いました。

『「古老」曰く

私は六〇年間、この祭りに関わって来ました。 愛宕神社の祭礼は、尾張藩と深い 関係がありました。
当時、このあたり一帯は「馬走瀬」と 言われた小さな漁村でした。
二代藩主 徳川光友公が、ここ「馬走瀬」の浜に御殿の造営を計画し、藩は家臣の知行地を府内地に知行替へし「馬走瀬」を直轄地とします。後に、「馬走瀬」村は、碁盤割りの町並みが形成され、 延宝三年、横須賀町方に改称されます。 光友公は、御殿を軍港として増築し、土塁で囲み、枡形を造り、門前は立ち入り禁止とした。別荘とは思えない構造物であったようです。地元の人もこの話はあまり知られ ていません。御殿には光友公が頻繁に訪れた記録が残っています。城下の堀川を船で伊勢湾に下り、海路を使い御殿へ訪れています。陸路の記録は一切ありません。何故か不思議に思はれます。幕府は尾張藩の動向を強い関心を持ち陰陽師に監視に当たらせたようです。村人は藩公を「傘鉾祭り」で歓迎し、後に、それが現在の「山車祭り」と変化していったと伝えられています。正徳四年、光友公の死去により、御殿は徹底的に破壊され、今は池之端のみで、遺構は何も残っていません。同時期に造営された大曽根御殿は破壊される事なく、跡地は建中寺の寺領、一部は成瀬氏等藩の重臣の屋敷、あるいは、現在の徳川美術館の敷地となっています。御殿跡は、後に藩領となり、知多半島七五ヶ村を統括する横須賀代官所が置かれます。

幕末まで続く港の跡地は、尾州船が大活躍する拠点として栄えました。当時、知多半島は木綿の製造販売で飛躍的に発展していました。一方、名古屋は倹約令発布で経済が停滞気味で、府内に眠っている山車を、横須賀の町方衆が、寛政年間、囃子法衣など譲受け、文化文政年間に次々建造され、現在は、五台の山車が当時の状態で残っています。尾張の山車には、名古屋型と知多型があります。横須賀の山車は、全て名古屋型です。知多型に代表されるのは、半田亀崎の山車です。山車の殆どが知多型である理由はよく判っていません。山車担ぎ上げ回転奉納する行事を、地元では「大どんてん」と呼びます。各組とも愛宕神社に向かって拝礼した後、お囃子とからくり人形の奉納、笛の音が響くと「どんどん、ヤァー」の大太鼓と掛け声とともに「大(おお)どんてん」が始まり、紙吹雪が舞う中で祭りは最高潮に達します。地元関係者の思いは熱く強いものがあります。若者は町内の期待を一身に担い、持てる力を最大限に発揮します。山車の中に乗る楽人も、日ごろの猛練習を町内衆に披露する絶好のチャンスです。祭り最大の見せ場です。

山車を持つ昔ながらの町は、人口減少と若者の新転地への転出で何処も苦労しているかと思います。

町を離れた私が、何故に祭りに関わって来たかと言へば、それは祭りが大好きだったからは勿論。でも、それだけではないのです。街並みは、昔も今も道幅狭く家屋の密集地域です。町内の若者は、みな結婚と共に引越しせざるを得ないのです。分家する土地がないのです。これは六十年前から変わっていません。私もその一人です。近郷に転居したものは、毎年祭礼の折には帰り、若者と一緒に稽古に入ります。お囃子を奏でる楽人がいなければ、山車が何台あっても祭りは存続出来ません。いったん途切れたら、もう二度と後世へと繋がりません。この後世への継承の糸の一本が、自分であると考えた時、私をして、六〇年間、毎年稽古場に足を運ばせました。最近はマンションも建ち、新しい住人も増え保存会の努力もあり、又、学校の理解もあり、祭りに興味持つ子供たちも増え明るくなっては来ております。山車の修理はお金で解決出来るが、お囃子はお金で解決できません。お囃子の継承者作りに町内挙げての協力と、理解が必要です。及ばずながら、私もお囃子継承の一助となれと、老骨にムチ打ち懸命に努力を致しております。私の周りの幼馴染も少なくなり、寂しくなって来ました。八十路を迎へ、私なりに囃子方で、若者と子供達と一緒に今暫く続けてみようと思っています。一本の細い糸として!!』

後日、かの「古老」より連絡がありました。
尾張横須賀祭りの生き字引と言われている『森 俊夫 著 我が町 わが故里のまつり どんてん』を譲りたいとの事。 ほぼ、自費出版で、現在では入手困難との事でした。有難く頂きました。

                                     

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