蟹江・大野城の合戦  前編

所在地:愛知県蟹江町城1丁目111 

16世紀戦国期中期の伊勢湾北部沿岸部の概略図  (筆者推定作図)

天正十二年四月小牧・長久手の戦いが始まり、戦局が一時、膠着したかに見えたが、長久手の戦いで徳川家康に大敗をきした羽柴秀吉は雪辱戦を期し、尾張における制海権を確保し、織田信雄の長島城と清州城に居た家康の間に楔を打ち込むため、蟹江城に秀吉軍の橋頭保を築かんと計画した一大合戦が計画されていました。 当時の蟹江城主佐久間正勝は、下市場、下一色(前田城)、大野城の三支城を従えた武将でした。当時、織田信雄の命により、伊勢方面よりの秀吉軍に対抗する為、亀山城、峰城に転戦し、萓生の砦(四日市)に派遣されていました。 この間、蟹江本城の 留守居役に叔父の佐久間正辰が本丸を、一族の前田与十郎長定が二之丸に入り、下一色の前田城には、与十郎の子甚七郎長種が、下市場支城には、与十郎の弟与平治利定が、大野支城には山口重政が守っていました。山口家伝「蟹江一乱」によれば、蟹江城には、本丸、二の丸、三の丸の三郭があり、三の丸を平之丸と言っていた事が知られていて、一括して三重の堀が巡らされていたようです。自らも支城を持つ戦略上重要な拠点となる実戦優先の戦う城でした。寛文十年(1670)前後の、「寛文覚書」には、既に「城跡、今ハ、畑トナル」とあり、相当早い時期に、城跡は消滅していたようです。現在も、海抜0メートルの扇状地帯が広がっていますが、当時の海岸線は、遥かに内陸にあり、熱田神宮近くまで入江が入り込んでいたようです 蟹江城本丸跡に建つ石碑 人家が密集し遺構らしきものはなにも有りません。江戸期の蟹江本町村村絵図に地名として、「本丸跡」「古城掘」「前田口」「古城橋」「本丸井戸」「大手口」が記されていて、往時をしのぶ事ができます。「大手門」は城の南側に在ったようです。現在、人家の前の市道の端に、「蟹江城本丸井戸」が残っています。

大野城は、日光川に面した湿地帯に在ったようです。遺構は何も残っていません。現在、大野城趾の碑が建っていました。羽柴秀吉方の将 滝川一益は 前田一族の内応を取りつけ、伊勢の九鬼嘉隆の水軍を従え、蟹江、大野、下一色へ上陸が可能と判断し、ここに、世に言う、蟹江・大野合戦が始まるわけです。前田の城を抑えれば、長島城を孤立させ、清州城が海につながる五条川、庄内川を抑える事になりますから海からの物資搬入が不可能となり、今後の、戦略上、秀吉方の決定的有利な条件となります。この意味において、この合戦が、小牧・長久手の合戦の一.局地戦ではなく、戦局を決定付ける最大の合戦であったと云える所以です。以後、二週間に及ぶ籠城戦を主体とした戦いが繰り広げられました。この頃、京都一番の学者 江村専斎が語り、その孫伊藤宗恕が筆記編纂した「老人雑話」に「志津ケ嶽ノ軍ハ、太閤一代ノ勝事、蟹江の軍ハ、東照宮一世の勝事也」 専斎は寛文四年(1664)まで在世しており、この評価は、専斎の特別な個人的意見と云うより、太閤秀吉、家康の事跡を見聞きした当時の庶民の思いを反映したものとして歴史的に評価の高い資料と考えられています。秀吉にとって、一番の勝事は、山崎の合戦ではなく、賤ケ岳であり、家康にとって一番の勝事は、関ヶ原の合戦はなく、大野・蟹江の合戦で あったと。山鹿高興(素行)の「武家事紀」寛文十三年(1673)によると、滝川一益・九鬼嘉隆の兵船が、出航したのは、天正十二年六月十五日、集結場所は、伊勢白子湊、兵数「安宅船」を含む数十艘の舟に兵三千余名を乗せ、蟹江城沖に到着は六月十六日の早朝頃と伝えられています。下市場の城は、与一郎の弟 前田与平治利定ですから、入城は速やかに行われたようですが、蟹江と大野の無血入城は、簡単にはいかなかったようです。本丸に居る佐久間正勝の叔父信辰は、内応には頑として応じず、山口家「蟹江一乱」に曰く、「信辰大イニ、イカリ、既ニ城中ニ火ヲハナチ、正勝ガ妻子ヲコロシ自害セントス、時ニ、正勝ノ妻子カニゑノ本丸ニイアリ、依ッテ前田,滝川大イニ、オドロキ、シキリニワビ言ヲ云ウ、然ドモ信辰キカズ。与十郎ヤム事ヲ得ズシテ、二男八丸トテ、十三才ニナルヲ人質ニナス故ニ、信辰城ヲ出テ、正勝ガ妻子ヲ松葉ノ宿ニ送ルニ至ル」と。無血占拠の説得に時間を要し、潮時をのがし、小舟に乗り換えての入城の為、入城予定兵力の半数しか上陸出来なかったようです。大野城山口重政は、母を人質にとられるも、内応には同調せず、最後まで信雄・家康方として抵抗します。
天正十二年六月十七日
九鬼・滝川水軍に対抗する為、知多郡大野湊に集結中の、家康の水軍の戸田忠次、間宮信隆、大野衆を束ねた織田長益、師崎の千賀重親、小浜景隆の水軍に、蟹江城沖に停泊中の九鬼水軍、蟹江城に前田兄弟とともに籠る滝川一益に対する総攻撃の命が下り、蟹江沖の「尾州蟹江の鉄砲合戦」と後の世まで語り伝えられた蟹江・大野合戦の幕が切って下されました。ちなみに、信雄・徳川方の水軍総指揮官は織田有益 大草城主であったようです。

戦局の推移は「蟹江・大野城合戦」の後編で。

参考資料: 蟹江町史 佐屋町史 資料編五 蟹江町歴史資料館 蟹江合戦 案内資料

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