戦国時代の山城が甦った !! 足助城
2019年12月8日
2020年1月29日
足助城は、「中馬街道」足助宿を見下ろす標高301㍍の真弓山の山頂にある山城です。別名 真弓山城ともいいます。
足助の宿は、三河湾の塩を信州地方へ運ぶ交通の要で、「塩の道」 馬で運んでいた為、中馬街道と呼ばれていたようです。美濃、信州、尾張、三河に接する交通の要で在ったわけです。
ここ真弓山の山頂に、戦国時代に西三河山間部に強力な勢力を持っていた足助鈴木家の本城が築城されたようです。
初代鈴木忠親は、15世紀後半の人物と言われています。鈴木氏は五代続きますが、城の立ち位置が、街道の重要なポイントに在ったため、松平、今川、武田、徳川、武田、徳川とめまぐるしく従属離反を繰り返してきました。
天正十八年(1590年)、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、真弓山城(足助城)は廃城となりました.。平成二年から山頂の発掘調査が始まり、平成三年~四年にかけ遺構に則し、本丸高櫓、長屋、物見台、西の丸番所、厨(台所)などが整備されました
典型的な中世の山城ですので、石垣、白亜の城壁、天守閣等は、ありません。
井戸の跡 深い堀抜きの井戸ではなく、山の斜面からの湧水を溜める井戸のようです。 西の丸跡 足助の街と岡崎街道が見下ろせます この山の向こうは三河、岡崎です
南の丸腰曲輪。落葉したもみじの葉が一面に積り、真っ赤なジュウタンを敷き詰めたようでした
高櫓と長屋を南東より望む 城主の居間 高櫓の1階の壁に火縄銃が 有りました。 本丸の長屋に当番の兵がいろりを囲んで寝起きしていたとと思われる。
本丸に立つ高櫓と長屋 木造で遺構より推測し再現(南西より望む)
足助の街並みが、眼下に広がります。左側に美濃街道で美濃東部へ、右側が伊奈街道で信州へと続きます。この街道を利用して、武田信玄、武田勝頼の武田の大軍が2度にわたり攻め込んで来ました。ここから武田の無数の旗指物が眺めれたわけです
足助の宿は、季節ごとに姿が一変します。再度訪れたい宿場町です