三河の小京都 西尾城
2019年11月19日
2019年12月14日
西尾城( 別名、鶴城、鶴ケ城、西条城 )は、 承久の乱(1221年)の後、三河守護職に任命された足利義氏がこの地に、西条城を築城したという説が定説のようです。この足利氏が、吉良氏と改名し、西条吉良、東条吉良の二家に分家し、この三河国幡豆地方一帯を戦国時代まで支配してきました。
徳川家康の三河統一に伴い、徳川家康の重臣 酒井正親が入城(1561年)し、西尾城 と改め、酒井重忠の代で、ほぼ現在のお城の概観 櫓門 堀や石塁の造成、櫓類、天主などが増築されました。西尾城は、これより、田中氏、本田氏、松平氏、井伊氏、土井氏・・頻繁に城主がかわるが、いずれも徳川家の譜代大名が移付されてきます。明和元年(一七六四年)、出羽(山形)から、大給松平(おぎゅうまつだいら)氏が、西尾城の藩主として入封し、二万三千石から六万石の城下町が誕生、西三河南部の中心的な城下町として発展。以後、明治の廃藩まで五代続きます。
西尾城には、天主閣が二の丸にありました。二の丸への正門の為、このような楼門式の大きな正門となりました。江戸城の本丸御殿の前門が 鍮石門(ちゅうじゃくもん)と云う名前が付いていたことに因み、この名称が付けられた云われています
この坂道の上に、丑寅櫓の入口があります。平成8年に木造で再建されました。 本丸に立つ丑寅櫓(三重櫓)
摂家筆頭 京都、近衛家に江戸末期、薩摩藩島津家よつて、建てられた書院と茶室です。NHK大河ドラマ篤姫ゆかりの京都近衛邸!!数寄屋風な簡素な造りですが、時の趣が残る、静かな佇まいです。(平成七年 移築)
六畳の茶室と三畳の次の間 手前座脇に「亭主床」とよぶ珍しい構成です。奥の障子戸がにじり口です。
西尾の抹茶の一服は、格別でした。