吉良様は良いお殿様でした。

あの「忠臣蔵」 赤穂浪士討ち入りの十二月十四日は、ここ吉良町では、吉良上野介義央公の命日として、毎年、菩提寺華蔵寺で盛大に毎歳忌の法要がいとなまれてきました。米沢市市長も米沢藩上杉家との所縁をもって、参拝に毎年出席しているようです。元禄十五年(1702年)十二月十四日、江戸本所の吉良家江戸屋敷において赤穂浪士に討たれた義央公ですが、ここ吉良の領民から慕われながら非業の死を遂げた名君として、今も多くの人々の心に生き続けています。江戸の昔から、ここ吉良では、「忠臣蔵」に関わる興業が成り立たなかつたとの話を耳にしています。吉良町には赤馬に乗った義央公の像が沢山あります。領地を赤馬にまたがり巡回をして親しく領民と接し、人々から厚く信頼されていたと伝えられています。治水工事、塩田開拓、新田の開拓など、数々の善政がいまに残され、語り伝えられております。なかでも、善政の一つとして有名な「黄金堤」は、当時、大雨ごとに水害をもたらした流域に、たった一晩で築いたと伝えられる180㍍の堤防は今もなお健在で、桜の名所として人々を楽しませています。

上野介義央公50歳の時の姿だそうです。寄木造で県指定文化財です。高家吉良家は、幕府の儀礼を取り仕切る高家職を三代にわたり務めた4200石取りの旗本でした。(華蔵寺御影堂蔵) 

吉良家菩提寺 華蔵寺 住所: 〒444-0531 西尾市吉良町岡山山王山59   

臨済宗 片岡山 は、 吉良上野介義央公の曽祖父、義定公が吉良家を再興した際、高家吉良家の菩提寺として江戸時代初期に創建されました。もともと、吉良家は、鎌倉時代に足利氏が三河守護・吉良荘地頭を務め、この地に居住したことに由来し、室町時代には足利将軍家の一族として幕政の中枢で活躍し、戦国時代には、この近くに東条城を築き、西尾市の西条吉良、吉良町の東条吉良とに分かれて、この幡豆郡一帯を支配していたようです。

吉良義安公から義央公の継嗣義周(よしちか)公まで吉良家六代の墓がありす。すべての墓には新しい花とお線香が添えられ綺麗に祀られています。驚きす!!
義周公は、出羽米沢藩上杉家五代当主上杉綱憲公の次男で、吉良上野介義央公の孫にあたり、五歳で吉良家に養子となっています。
元禄14年(1701年)3月14日、義央公が殿中刃傷を受け、12月12日、義央公は事件の影響で隠居します。義央公隠居後、吉良家の最後の当主となります。
赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年(1702年)12月14日の際、義周公は18歳でした。自ら武器をとって応戦したものの、深手を負います。
元禄16年(1703年)2月4日、幕府評定所に呼び出された結果、義周公の当日の対応は「不届き」として改易の上、信濃諏訪藩主諏訪忠虎公にお預けを言い渡されます。なお、同日に赤穂浪士たちが切腹しています。
宝永3年(1706年)1月20日死去します。享年21。地元の法華寺に葬られました。後日、吉良家の菩提寺華蔵寺に祀られます。鎌倉以来の名門 吉良家は断絶します。

明治、大正、昭和と活躍した境涯の俳人 村上鬼城が大正七年ここ華蔵寺に詣で、この句をしたためた。

行春や
    憎まれながら    
            三百年

お気の毒な吉良様  三百年もの間  
        
         世間では憎まれなさった  
    

           あんなに名君でありながら!!

吉良町歴史民俗資料館発行パンフレット 吉良町教育委員会案内板参照 

 

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