名門吉良家の居城  東条城

 東条城の歴史は古く、鎌倉時代の貞応元年(1221年)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭に任命された際、三男足利義継に吉良荘東条を譲り、この地に東条城を築城したのが始まりとされています。室町時代、応仁の乱では、同族の西条吉良(西尾吉良)と骨肉相争う悲劇を体験します。
戦国時代に入ると東条家は今川方に与していました。桶狭間の合戦以後、松平元康(家康)が、織田信長と同盟を結び、今川・吉良氏との戦となります。永禄九年(1561年)、家康は東条城を攻めます。名門東条吉良家 十四代義昭は降伏し東条吉良家は滅亡します。しかし、後日、家康は天下統一後、十三代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家の再興をはかります。これが、江戸時代の高家吉良家の始まりとなる訳です。赤穂浪士の忠臣蔵で有名な吉良上野介へと繋がっていくわけです。落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入城し、東条松平家が成立しますこの東条松平家も家康の四男忠吉(尾張清須城城主)の代で断絶となります。東条城は、天正十八年(1590年)に家康が、関東に移った後、廃城となります。したがって、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものです。

 所在地:愛知県西尾市吉良町駮馬城山45 東条城跡 

 

東条城縄張り図

三の丸への登り口。三の丸より望む本丸に建つ復元建造物

本丸跡に建つ東条城祉の碑 。虎口跡(大手門跡)の城門 物見櫓は創建当時(鎌倉時代)に在ったであろう姿に極力近かづけた建造物のようです。

本丸跡より三の丸を望む。中世の城郭は、後世にみられる堅固な石垣や、天守閣がないのが普通で、この東条城は中世の城郭の特徴を良好に残している貴重な遺構だと思います。

二の丸跡には八幡神社が建っていました 帰路、西尾城の近衞邸へ立ち寄ってきました。近衛邸での抹茶の一服は格別です!!

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