終戦記念日に思うこと
毎年、終戦記念日近くになると、NHKをはじめ、民放各局が終戦特集番組を放映します。戦争体験者の方々の戦争のご自分の体験談を後世に語り繋げなくてはと、重い口を開き、語るのも辛そうに、語っておられる番組を多く目にします。高齢化が進み、殆どの方が、90歳以上となって来ています。70年前に、実際に自分が体験した地獄絵図が、歴史の1ページに埋もれてしまうのが許せないのではないかと感じて取れます。
日蓮宗の大教院 以前は草生す庵といった感じのお寺でしたが、今は住職も変わり、本堂も綺麗に化粧なおしをすませ、新しく庫裏も出来あがっていました。この大教院には、昔より、琴弾き松のあるお寺として近郷ではチョット有名なお寺でしたが、何時の間に、枯れ果ててなくなっていました。古木の一部が本堂に残っています。 この境内の一画に、確か、地を這うように大きな松の古木(琴弾き松)があった事を記憶しています。この大教院には、ことさら特別な記憶があります。今から、70年以上前、出征していた父親が戦地より帰還したとき、母親が本堂で父親の無事を願い、一心にお題目(南無妙法蓮華経)を唱えていた最中、母親に、父親の無事な帰還を知らせに走った記憶が蘇ってきます。
今回、お盆に久しぶりに兄弟全員集まり、親父、お袋の戦中戦後の苦労話が話題になりました。私の父親は、14年前に、母親は、17年前に他界しております。親父より、戦争体験の事は、殆ど、話を聞いておりません。話をするのを嫌がっていたように記憶しています。戦地の夢はしょっちゅう見るとは言っていました。今にして思えば、もっと、どんな体験をしてきたのか、聞いておけばと残念に思っています。ただ、突然、戦時中の事を話しだしたことも時々あったように記憶しております。初年兵の時の同年兵の名前と、戦地での自分の所属する小隊の戦友の出身地と名前を全部記憶していていると云っていました。自分は、つい最近まで勤務していた会社の同僚の名前を、何名記憶しているのか?全然名前が出てこない。戦友がいなかったと云う事ですかね!!
兄が今回、父親の遺品の入っていた書類箱の中に、陸軍戦時名簿、従軍証明書、引揚證明書、軍発行の郵便貯金證明書を見つけ、父親が、戦時中の事は殆ど話してはいなかったので、非常に興味深く読みました。親父のこの陸軍戦時名簿には、初めて知り得た事実が、淡々と、時系列に従い記載されていました。
私が聞かされていたのは、親父は、二度召集を受け、大陸に出征し一度目の出征で、軽機関銃で左足に貫通銃創を受け、本国送還除隊したと。確か「突撃中に、前方の民家の屋根の上の敵の軽機関銃の一斉射撃を食らった。」と話していたような記憶があります。左足のふくらはぎに、銃創の跡がはっきりとあったのを記憶しています。何処の、敵前上陸作戦か、はっきりしませんが、こんな事も話していました。「猛烈な砲撃、銃撃の中、渡河し敵前にようやく辿り着いたが、前線にくぎづけになって居た時、よその分隊だが、後方の民家に隠れていたところに、敵の直撃弾を受け、分隊全員が戦死。だから、何処に居ても弾は、当たる時には当たるもの、人間、腹を決めて、思い切りやるしかないと決断する時が一度はかならず来るもんだと。」
上海敵前上陸後の、塹壕戦と思われる。 日本軍の重慶空爆か?
行けど進めど何処まで行っても泥道ばかり 道なき道を黙々と、兵の歩みの頼もしさ!!
陸軍戦時名簿
「兵種 第一補充兵役、兵種 歩兵 特有の技能 輕機(軽機関銃) 動員前ノ所属部隊 名古屋師管岐阜蓮隊区
出身年次 昭和九年 昭和一五年四月二九日瑞八等授章
昭和十四年十一月七日臨時召集ニ依り歩兵第六十八連隊補充隊ニ應召○昭和十五年二月十四日陸支機密第二三二號ニ依り補充交代要員トシテ歩兵第六連隊ニ転属○二月一七日宇品港出港○二月二十二日呉淞沖通過○三月一日漢口上陸○三月六日歩兵第六十八連隊ニ転属・・・六月三日ヨリ六月十一日マデ宣昌作戦大巴山系突破竝當陽付近ノ戦闘に参加○六月十一日富陽西方十粁峡口付近ニ於テ戦傷左下腿軟部貫通銃創ニ依リ第三師団第一野戦病院ニ入院・・・・・・・・十月一日名古屋陸軍病院笹島分院ニ転送入院○昭和一六年十月十三日召集解除○同日退營
昭和十九年二月二十八日動員下令○(二度目の召集です。)
同年三月十四日臨時召集ノ為歩兵第第百三十六連隊に應召○三月十七日編成完結○三月二十一日門司港出港○三月二十四日青島港上陸○三月二十九日江蘇州鎮江着○同日ヨリ同地付近ヲ警備○・・・・・・
自二十年一月三十日~三月一五日淮河啓開作戦ニ参加○二月二十五日独立歩兵第六百二十六大隊第二中隊に編入○・・・・・・・・・・・・自八月八日至八月十日望直港附近ノ討伐ニ参加。」(この間、参加した作戦五回以上。)終戦時、昭和二十年八月十五日には、江蘇省泰縣泰洲でマラリアに罹病して、三日治療を受けていたと従軍証明書に記載されていました。終戦時、確か、八路軍に武装解除されたと云っていたような記憶があります。
北支、中支方面を中心に、武漢三鎮攻略、淮河啓開作戦等々、五年間大陸の泥沼をただただ歩き続け、赤痢、マラリア、に悩まされ、敵弾にも今回は当たらず、よくぞ無事に生き延びて帰還できたと、親父の生命力、強運に本当に感謝したい気持でいっぱいです。生きて、故郷の地を絶対に踏むぞ!!親父の気持ちが伝わってきます。
引揚證明書
「所属 独立歩兵第六百二十六大隊 職業 陸軍兵長 給与金品記載 應急用主要食糧特別購入券 應急用味噌醤油特別購入券. 上陸地ヨリ鉄道ニ乗車ノ場合ハ、本証明書ヲ提示、乗車券ノ交付ウケテ下サイ。
昭和二十一年三月十九日 佐世保港ニ上陸セルコトヲ証明ス 厚生省佐世保引揚援護局長」
此の証明書は、大変重要な書類で、市区町村に戸籍転入に必要となり、内地通貨と交換の時にも銀行に提示する必要が有り、ハガキ一枚程のこの薄紙一枚が、五年間泥沼をただただ歩き続けた唯一の代償と云う事になるなる訳です。
子供たちに、そして孫たちに、親父、お袋が大変な時代を生き延びた事実を語り伝えて、少しでも戦争の愚かさを理解してもらえればと思っています。