未完の巨城 大草城

知多四国七拾番札所  「井戸から上がった地蔵様」で有名な地蔵寺 に隣接する大草公園が、実は、大きな未完の城郭の址でした。

所在地:知多市大草字東屋敷110-1 大草城址  

本丸址は、現在、この模擬天守の展望台とグランドがあり、地元知多市の大規模災害時の一時避難場所として指定さています。  

           

本丸、二の丸に水濠と土塁、空堀、櫓台址も良好に残っています。 この様な城址は県下でも数少ないようです。西は伊勢湾に迫り、南に矢田川、東は神田川が外堀の役割果たし、本丸(東西48間・南北40間)二の丸(東西46間・南北37間)の周囲には土塁(3~20m)を廻らしていたようです。
 

梯郭式縄張りをもつ本格的城郭を目指していた意図が伺えます。実は、大草城は未完のお城です。築城者は、織田信長の実弟で、茶人として有名な織田長益(有楽斎) 「おだ うらくさい」でした。築城のきっかけは、  織田 信長の嫡男信忠 に仕え、知多郡に所領を与えられ、天正九年(1581年)織田信長の命により大野荘 大草村を拠点に、伊勢湾の海運の実権掌握する為、築城するよう指示が出た為と言われています。しかし、天正十年(1582年)本能寺の変で計画が頓挫、完成目前にして、天正十一年(1586年)工事が中断してしまいます。その後豊臣秀吉の命により、小牧長久手の戦いの後、摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)に移封され、大草城は、未完のまま廃城となりました。廃城が420年経っても、この規模で良好に残っていることが驚きです。尾張藩は大草城跡を尾張知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地を与え(五千石)城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存されて来ました。 
                                 

晩年の出家姿の織田有楽斎 

         参考資料 「大草城跡」 知多市文化財資料第40集(知多市教育委員会)

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